okamurashinnのブログ

表象文化論、アニメーション、キャラクター文化、現代美術に興味があります。

『リズと青い鳥』公開初日レビュー

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 『響け! ユーフォニアム』の外伝的な立ち位置である、映画『リズと青い鳥』(以下、『リズ』)が4/21(土)に公開された。筆者も期待に胸を踊らせ、本日朝一番の回で見てきました。その興奮のままに、本作の簡単なレビューをしようと思う。ネタバレ記事になりますので、ご容赦を。

 

映画『リズと青い鳥』概要・あらすじ

 本作は田中あすかたちが卒業し、黄前久美子高坂麗奈が2年生になった年を描いた物語。3年生・鎧塚みぞれ(以下、みぞれ)の視点を中心に物語は展開していく。

 前の年に中学からの親友であった傘木希美(以下、希美)と仲直りをし、二人で仲良く練習していた彼女たちだったが、新しい学年に上がることで彼女たちの環境は変化していく。新1年生が入部し、希美が後輩と仲良くしていくことでみぞれは希美との距離をまたしても感じることになる。その距離感がコンクール自由曲『リズと青い鳥』のフルートソロとオーボエソロの不安定さを招くことになる。希美とみぞれの音が上手く響かないのだ。

 作中に出てくる童話・小説『リズと青い鳥』は少女・リズと人間の姿になった青い鳥の束の間の共同生活を描く物語だ。最終的に孤独そうに見える自分のために一緒に暮らしたいと言った青い鳥を、リズは本来の空へ帰すことで別れを告げる。

 みぞれは青い鳥を解き放ったリズの気持ちがわからずに苦しんでいた。彼女が希美を手放せないように、みぞれ自身がリズであったとしても青い鳥を解き放たないと彼女は言う。その苦しみは、希美がまたいつ自分の元を離れてしまうかわからない苦しみと重なり合っていく。

 希美の後ろ姿を必死に追おうとするみぞれの元に、新山先生から一つの提案がなされる。音大受験の誘いだ。当初はそこまで乗り気ではなかったが、希美がその話を聞いたときに私も行こうかなと言ったことで、みぞれは当然のように音大行きを即決する。

 みぞれの希美に対する異様なまでの執着・依存に不安を感じたのは希美だけではなかった。優子はみぞれに確認する。本当に音大に行きたいのかと。みぞれはこう返す。希美が行くから私も行くのだと。優子はその執着・依存に一抹の不安を感じながらも、みぞれがそう思うならと経過を見守ることにする。

 空転する希美のフルートと抑えつけられたようなみぞれのオーボエは、どこまで辿っても交わらない平行線のように描かれる。希美とみぞれの距離が開きながらも、時間は進んでいく。後輩・剣崎梨々花(以下、梨々花)にリードの彫り方を教えて欲しいと頼まれたみぞれは彼女の頼みを聞き入れる。それはみぞれにとっては少しの心境の変化だったのかも知れない。しかし、梨々花にとっては初めてみぞれが心を開いてくれた瞬間であり、梨々花自身がコンクールに出られないと決まった後のことでもあった。その後、希美とプールに行くときに梨々花も誘うことで、みぞれは後輩との関係も徐々に築いていく。

 希美はふと気づく。自分は本当に音大に行きたいのかと。否、希美はみぞれと並んで演奏をしたいから強がりで音大に行くと言ったのだ。みぞれはリズの気持ち気づかされたことで、自分の持てる力をぶつけてオーボエを吹くしかないのだと感じた。そうしてはみぞれは伸びやかに美しいオーボエを吹いて見せたのだ。みぞれはいつ終わるかわからない恐怖と隣り合わせで人気者の希美に好意を寄せ続けていたが、足枷をされていたのは希美だけではなかった。みぞれと一緒に演奏したいという希美の想いは、彼女の実力不足が故に、みぞれの演奏のスケールを小さくしてしまっていたのだ。

 足枷を外されたみぞれのオーボエは美しい音色を響かせ、希美の震えるフルートの音とは対比的に描かれる。この音合わせを境に彼女たちの行く道は決定される。みぞれは音大へ、その圧倒的な才能の差を受け入れた希美は大学受験へとそれぞれの道を歩むことになる。しかし、彼女たちにとっての別れは必ずしも悲しみには直結しない。希美は別れるリズと青い鳥に対してまた会えばいいと言うし、みぞれは希美の選択を尊重すれば、一番彼女が喜んでくれることを知っていたから。こうしてお互いの気持ちを確認できたところでこの作品の幕は閉じられる。

 

ポイント解説

 本作を語る上でのポイントはいくつかあるが、要点だけ抜き出してみる。

 

  1. 「恋」に揺れ動く少女の機微が丹念に描かれている
  2. その感情の機微を物語るのは「言葉」ではなく、アニメーションと音である
  3. キャラクターは彼女たちの関係を表すように細く崩れそうな線で描かれる
  4. 親しい人との別れとどう向き合っていくか

 

 

1. 「恋」に揺れ動く少女の機微が丹念に描かれている

 山田監督は『リズと青い鳥』パンフレットのインタビューでこんなことを言っている。

 

これ、愛というより、「恋」なんですかね。愛は少し離れることがあってもまた戻ってくる可能性の方が大きいし、そこに安心感がありますもんね。恋はそうじゃないですもんね。。。

 

みぞれは希美にいつか見放されてしまうのではないかという「恋」のような不安を抱えながら日々を過ごしていた。ことの発端を知るには中学時代まで遡らなければならない。

 みぞれと希美、二人の関係はシリーズを通してみぞれの不安に満ち満ちた視点から描写される。アニメ『響け! ユーフォニアム2』(以下、『響け! 2』)では5話までにみぞれのトラウマと希美の関係について描かれていた。希美は中学時代から集団の中心になり、人を惹きつける魅力を持っている。人とのコミュニケーションが苦手なみぞれを吹奏楽部に誘ったのも希美であり、みぞれにとって吹奏楽は希美と自分をつなぐ架け橋であり続けた。高校でも吹奏楽を続けていた二人だったが、希美は先輩とのいざこざで退部することになり、必死にオーボエを練習していたみぞれを見て安心した希美は、みぞれを誘わずに吹奏楽部を退部する。退部を事前に知らされていなかったみぞれにとって、それは希美に捨てられたことと同義であり、強いトラウマとして彼女の中に残ったのだ。しかし、『響け! 2』5話で二人はそのすれ違いを対話することで解消する。そうして、みぞれと希美は元の仲に戻ったのだった。

 こうした状況で迎えた翌年、彼女たちは3年生になった。3年生は別れを意識する学年だ。社会を前にして就職するのか大学に進学するのか、はたまた別の選択肢かと、これまで思考が停止していた将来に関して考えなければいけなくなる時期である。別れに敏感なみぞれは、卒業というイベントを否が応でも意識せざるを得ない。『リズ』は、彼女たち二人の関係を見つめ直さなければいけない状況が描写される作品と言えるだろう。

 「恋」はみぞれの片想いとして描かれ、その想いは執着と言えるほどに重い。後輩と話す希美に向かって、みぞれはこっちを見て! と言わんばかりの視線をひたすらに希美に投げかける。嫉妬、希美を占有したいといったみぞれの想いは、そのみぞれの振る舞い、画面のカットから滲み出ている。それに対して希美は微笑んで軽やかに返すのだ。希美にとってみぞれは特別な友だちではあるけど、「恋」ではない。希美は決して、みぞれが占有する彼女にならない。

 故に、希美をいつ失ってもおかしくないと感じ続けているみぞれの不安・緊迫感が、物語全体の張り詰めた雰囲気を支え、「言葉」で伝えられないようなみぞれと希美のお互いに対する複雑な感情が絡み合うことで物語を紡いでいくのだ。

 

2.その感情の機微を物語るのは「言葉」ではなく、アニメーションと音である

 そして、『リズ』という作品の中核にある二人の感情は「言葉」によって過剰に語られることはない。二人の足どり、仕草、距離感、映されるモチーフ、靴の音、楽器の音色、BGMを含めた音楽、声のトーンのような感情に対して直接的にはならないような表現を総動員することで動画は構成されている。感情を表す説明的な「言葉」は過剰に使うことで意味を持ちすぎるのだ。重要な場面で「言葉」が使われることで、その力が発揮される。そして、これほどまでに迂回を重ねることでアニメーションはポエティックな表現に昇華する。私たちは『リズ』を鑑賞するとき、静かで美しい音楽を聴きつつ小説のページをめくるような体験をできたはずだ。

 その例として顕著なのは、冒頭の朝練に向かうシーン。水滴が落ちるような音が響くBGMを背にして、みぞれは希美を待つ。画面に映るみぞれの視点は少し揺れながらも、希美がひょこっと出てくるであろう校門の端っこ一点を捉える。希美ではない生徒に落胆するも、次に希美が現れる。みぞれは立ち上がり、今日も希美に会えたことを祝福するかのような仕草と音が画面に広がっていく。希美の歩く後ろをついていくいつもの景色が、みぞれの視点から画面に映る。希美の跳ねるようなステップは彼女の活発さを端的に表し、みぞれを惹きつける。軽やかなBGMがそこに組み合わさっていくことで、希美についていくみぞれの楽しい感情が画面を通して伝わってくるのだ。そんな感情を直接伝えるような過剰な「言葉」は『リズ』には不要である。

 しかし、アンビバレントな気持ちを強調する意味での「言葉」は強い力を持つ。例えば、みぞれの「希美と一緒ならそれでいい」という主旨の「言葉」は『リズ』の中でひたすらに反復される。これはみぞれの意志を強く反映する「言葉」であるのだが、その過剰さが却ってずっと一緒であることの不可能さを強調するような演出となっているのだ。

 また、みぞれと希美が使う「音大に行く」というフレーズはあまりにも多様な感情が込められている上、その意味は変化していく。

 みぞれから考えてみよう。みぞれがこのフレーズを意識したのは希美が「音大に行く」と言ったときからだ。みぞれにとってこのフレーズは、「希美と一緒に」行くことに一番の力点を置いており、希美と離れないことを象徴するものとして機能した。しかし、希美が一般の大学を目指すことを決めたあとはどうだろうか。みぞれにとってこのフレーズの意味は、希美が好きな自分のオーボエの音色を研鑽し続けるために頑張るという意味を持っていると考えることができる。

 対して希美の「音大に行く」は、後半の希美自身の述懐を信じるなら、みぞれのオーボエと対等に演奏しても恥ずかしくないフルート演奏の実力があると自分に信じさせるためのフレーズだった。しかし、終盤みぞれとの第三楽章合わせのときに感じた、みぞれとの圧倒的な才能・実力の差は希美には超えられない壁として理解される。そして、「音大に行く」というフレーズは跡形もなく消え去ってしまった。

 このように、物語を支える重要な「言葉」は本作では効果的に扱われる。意味のない「言葉」の過剰さは存在しない。(と言っても、みぞれと希美が大好きのハグをするシーンが後半に挿入されるのだが、ここでの「言葉」の応酬はやや意味のない過剰を帯びていたように感じる。みぞれをオーボエ奏者として見たときに、青い鳥として認識されたという事実は「言葉」を使わなくてもその画面と音から視聴者には十二分に伝わってきたはずである。少し丁寧な導線を引きすぎた感はあった。)

 

3.キャラクターは彼女たちの関係を表すように細く崩れそうな線で描かれる

 テレビで放送された『響け! ユーフォニアム』シリーズの池田晶子が担当したキャラクターデザインは一新され、『日常』、『氷菓』、『Free』、『聲の形』のキャラクターデザインを担当した西屋太志がこれを引き継いだ。先述のパンフレットでの西屋のコメントを引くと、

 

今回は感情の機微を丁寧に描いていく作品ですので、イメージとしては、少女漫画のような繊細さがより出せるキャラクターデザインにしたいと思いました。見た目では、等身を高めにし、首はすらっと長く、手足も細くしています。(中略)ある意味では色気をあまり感じさせないデザインになっているかと思います。

 

こうコメントしている。池田の丸くて可愛らしいデザインは、泣いても笑っても快活な雰囲気を漂わせるテレビシリーズには最適なものだったが、みぞれと希美が響きあう閉鎖的な空間としての本作にはマッチしないと山田監督は判断したようだ。

 西屋の繊細で壊れそうなデザインはみぞれを描くにはぴったりすぎるくらいのものなのだが、希美を表現するときにはどういった効果を生むのだろうか。本作でどうしてもクローズアップされるのはみぞれの希美に対する依存度の高さと不安定な心の動きだ。その張り詰めた雰囲気とこのデザインは、快活に振る舞う希美という少女の不安定さを炙り出すにも最適な表現方法だった。フルート奏者として希美が対等に掛け合いをしなければならない、オーボエ奏者・みぞれの底知れない才能への怖れ・嫉妬が快活な少女から零れ落ちていく。その感情を拾う機能の一つが、この細く崩れそうな線で描かれた繊細なキャラクターデザインであったのだ。

 

4.親しい人との別れとどう向き合っていくか 

 親しい人との別れについては、以前の

t.co

こちらでも詳しく書いたと思う。重要なテーマであるが故に、また別の機会にこれを中心に据えて記事を書くことがあるかも知れない。この項目では、『リズ』における別れについてだけ追っていこうと考えている。

 本作を解釈する上で別れを意識せざるを得ないことは(1)でも述べたと思う。これを象徴するように冒頭で「dis joint」という単語が画面に示される。そのまま別れる・離れるという意味で取っていいだろう。ここで別れとして考えられることは、みぞれと希美が別の進路を辿り離れ離れになることだろう。

 (1)で論じたように、みぞれにとっての希美はただただ全てを好きにならずにはいられない魅力的な人物だった。その彼女との別れというのは、すなわち彼女自身のほとんど全てをなくすことに等しいと考えていい。テレビシリーズでは優子に諭され、オーボエを吹くことそれ自体が好きだと自覚させられていたとしても、だ。それだけ彼女の中で希美のウェイトは重かったと考えられる。希美を失ったみぞれの様子は、『響け! 2』の5話までで確認することができる。なぜオーボエを吹き続けているかも分からずに、目標を失った彼女がそこにいた。かと言って、希美を取り戻したみぞれにも大きな欠陥が存在した。全ての原動力を希美に集約させてしまっている点だ。みぞれの行動のキッカケ・理由はほとんど希美にあると言っていい。「dis joint」はその意味で言えば、自立への第一歩と受け取ることもできる。本作でも意識される卒業のように、人と物理的に離れざるを得ないタイミングは必ずやってくるのだ。

 そして、みぞれの別れへの意識は終盤に向かい、希美や高坂麗奈、新山先生との会話の中で変化していく。高坂麗奈の、希美に合わせてスケールダウンした感じの演奏をするなという鋭い指摘や、新山先生との『リズと青い鳥』のリズの心境について考えるシーンは重要だ。みぞれは当初、自分をリズに見立ててリズの心境を考えていた。自分がリズだったら青い鳥・希美を解き放てないだろうと。しかし、新山先生に指摘されたのは、もし自分が青い鳥だったら、リズ・希美がどのような心境で自分を解き放っていただろうかということだった。みぞれは、リズがそう願うのなら青い鳥は旅立つことでしかリズの期待に応えられないという結論を導き出す。

 リズ・みぞれは後輩たちを含めて多くの人に好かれる青い鳥・希美を自分という檻から解放できない、希美を占有したいという嫉妬心に満たされていた。しかし、リズ・希美は青い鳥・みぞれのオーボエ奏者としての圧倒的な才能に気づき、自分のフルートとでは釣り合わないことを悟ったからこそ、みぞれを自分という檻から解き放たなければいけないと決意したのだ。そのことをこの時点でみぞれが完全に理解していたとは思わないが、希美の「みぞれのオーボエが好き」というフレーズによって希美の想いは了解される。

 お互いの想いを「言葉」にするという儀式、大好きのハグに付随する「言葉」の交換によって想いは共有される。視聴者にとっては過剰な言葉に見えると先述したが、二人がそれぞれの想いを共有する上で重要な「言葉」の交換であったことには間違いない。

 このように二人の間での想いが共有されることで、別れ「dis joint」という単語は「dis joint」と書き直されることでこの作品は終わりを迎える。つまり「joint」である。繋がるという意味を持つこの単語は、アンビバレントな意味を持つ。進路が音大と普通の大学に別れてしまったみぞれと希美の関係は「dis joint」するように見えるわけだが、想いを共有し、お互いによき理解者として最良の道を選んだ二人の進路はたまたま違ってしまっただけで、その想いを共有しているうちは「joint」している。つまり、心と心が繋がっていれば、物理的な「dis joint」程度は「joint」に書き換えられるという意味で理解できる。こうして、別れが悲しいという価値観は『リズ』というフィルターを通すことで転換されていくのだ。

 

結びに

 本作が成し遂げたこととして最も強調しなければいけない点は、従来のアニメがその物語を言葉や台詞でキャラクターに語らせていたところを、『リズ』はアニメーションとしての動き、演出、音響でその物語のほとんどを語らせてしまったことだ。しかも、その物語の内容は二人の少女の揺れ動く感情であり、ほとんどポエティックな世界に足を踏み入れている。それを小説や詩のように「言葉」で表現するのではなく、アニメーションという動く絵と音を組み合わせたメディアで成し遂げてしまったのだ。実写の映像作品でも、文学でも到達できないような領域に(アートアニメーションではない)日本のアニメーションが 足を踏み入れた瞬間である。そういった意味では、記念碑的な意味合いを持つ作品として本作が評価される日が来るのかも知れない。

 

 

※本稿で示した『リズ』の内容は本日鑑賞した僕の記憶によるものです。実際のあらすじとは異なる場合もありますのでご了承ください。