okamurashinnのブログ

表象文化論、アニメーション、キャラクター文化、現代美術に興味があります。

『さよならの朝に約束の花をかざろう』はなぜファンタジーとして描かれたのか。

 『さよならの朝に約束の花をかざろう』(以下、『さよ朝』)は岡田麿里が初の監督として制作したアニメ作品だ。近年の『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』や映画『心が叫びたがっているんだ。』のような代表作にも見られるように、岡田は人と人との関わり、特に友人関係やいじめについてフォーカスした作品を描いてきた。様々な作品ジャンルの脚本・シリーズ構成を受け持ってきた岡田だが、特に少年少女の細かな心情描写や会話において高い評価を得ている。

 しかし、初監督となった本作では岡田は今まで好んで選んできた現代日本という土俵を選ばなかった。舞台は中世ヨーロッパを思わせるファンタジー世界。なぜ『さよ朝』はファンタジーとして描かれたのだろうか。

 一つ想像できるのは、岡田は現実世界をモチーフにして人間関係を描くことをやりきったと考えているのではないか、ということだ。日本のアニメの状況を考えてみても、現実を直接的に描く作品の難しさを異世界ものの台頭が物語っている。

 95年の『新世紀エヴァンゲリオン』を発端にして、「セカイ系」と呼ばれる作品群が出現した。「セカイ系」は明らかに時代性を反映した潮流であり、君とぼくという近景の出来事が直接的にセカイという遠景を変革していく点が象徴的だ。現実には自己承認をしてもらえないというオタクたちの解決策として出現したセカイ系作品は、セカイという遠景を担保とすることで物語内では一定の説得力を得ていたのだ。自分が肯定されるのが作品世界内であったとしても、オタクたちが外界に一歩踏み出すことへの大きな貢献となった。

 しかし、セカイ系作品の自己承認システムはオタクたちがそのシステムの構造に自覚的になっていくことで、崩壊していく。自分たちは作品世界内で自己承認欲求を満たしているオナニー野郎だと自虐的になっていくのだ。その過程でセカイ系作品は衰退していく。

  その後は「空気系」・「日常系」と呼ばれるような日常を綿密に描いていく作風が増えていった。これらの作品群は異性の登場を省いて日常以外の不要な物語を徹底的に排除し、「セカイ系」から遠景さえも取り除いたものだと「物語とアニメーションの未来」[1]では語られている。ここで言う遠景とは、もちろん社会の抱える問題のことを指すのだろう。

 「空気系」・「日常系」作品はニュースを騒がせるような社会問題に触れることはできないかも知れない。人と人とのコミュニケーションという近景にしか焦点が合っていない作品群だと思えるから。しかし、今の若者にとってコミュニケーション不全は現実の問題として横たわっている。そして、コミュニケーションの不足/過剰という問題意識は日本の現代社会にも共有されることになる。いじめ、差別、引きこもり、孤独死SNSによるストレス。どの世代においてもコミュニケーションの不足/過剰が引き起こす問題が顕在化しており、社会を描く際に用いる題材としては最も重要な問題の一つになったのだ。

  そのコミュニケーションの問題について直接的に切り込んでいったクリエイターの一人として、岡田麿里をあげることができるだろう。前述したように、岡田は少年少女の細かな心情描写や会話を描くことに長けている。彼女の描く作品の舞台は現代日本のどこか、もしくはそれに準ずる場所が多い。若年層の視聴者に馴染み深い舞台設定は少年少女の心の動きを描くのに相応しい舞台だったのだ。

 家族や友人といった恋人のような特別な関係ではないけれど、世間一般では簡単に築けると思われている関係、岡田はそれを「神話」としてアニメで描きたいはずだ。家族や友人といった関係は世間一般で言えば当然あるべき関係であるが、その関係を享受できていな人たちも存在する。家族や友人という関係は私たちが思っているよりも儚くて脆いのだ。岡田はその脆さと美しさを自身の経験を交えながらアニメに織り込んでいく。

 岡田脚本のうち、家族や友人といったテーマを仕事場を通して描いた作品が『花咲くいろは』(以下、『いろは』)だ。この作品からは家族、出会い、別れといったテーマを読み取ることができる。もちろんより多くの要素を紹介できるかも知れないのだが、重要なのは『さよ朝』の主題としてもこれらの要素を捉えられることだ。

 この作品は母の元を離れて温泉旅館で働く少女を描く物語であり、母から離れた子が大人に成長していく過程を描いている。母と子がお互いに抱える複雑な思いとすれ違いが主に子の視点から物語の中で展開される。しかし、仕事場や学校を舞台にしていたため、物語の主軸にあるのは様々な人々と主人公いろはの重層的な関係だ。それに対し、『さよ朝』では主に母の視点から母と子の関係が物語の中で展開される。これらのアニメ作品に載せたテーマを、視聴者に自分のこととして受け止めてもらうためには工夫が必要だ。『さよ朝』では工夫の一環としてファンタジーという舞台は設定されたのではないだろうか。

 アニメーションにおいてリアリティを追求することは矛盾を孕んでいる。なぜならアニメーションという二次元と時間の軸でしか表現できない手法を用いる時点で、虚構性は織り込み済みのものとなり、作品内容の現実味を担保できないからだ。であれば最初から虚構性を押し出し、虚構の中にテーマとなるエッセンスをそっと入れる方が視聴者にテーマを伝えるという点では有効な手法に思える。そこで中世ヨーロッパ風のファンタジー世界は有効になる。このロジックについてより詳細に検討する。

 まずファンタジー以外の舞台設定について考えてみる。学校や部活を舞台にした場合は少年少女の交流、SF世界を舞台にした場合は科学技術が必須要件として描かれる。ではファンタジーはどうだろうか。ファンタジーでは科学技術をベースとしない不可思議な現象、つまり魔法や魔獣のような現実では存在しないものが描かれることだ。ただ、ファンタジーは必ずしも魔法を必要とはしていない。SFの科学技術とは違い、ファンタジーにおいての魔法は必須要件ではないのだ。

 『さよ朝』は魔法という存在感のある設定を省き、極限まで設定を削ぎ落としたファンタジー世界として描かれる。これは学校やSF世界を舞台にする場合よりも母子物語を描くには極めて条件がいい。なぜだろうか。

 学校ものやSFといったジャンルで存在感を放つテーマは上記のように確定的だが、『さよ朝』のファンタジー世界は大テーマとなりうる設定を切り離すことに成功している。『さよ朝』は私たちが想像する中世ヨーロッパにとても近い舞台、つまり特筆することのない童話的世界として認知されるのだ。それに対して、学校から少年少女は排除できないし、SFに科学技術は欠かせない。

 例えば、『さよ朝』の設定から母子物語を無くしたとする。残るテーマで私がピックアップできたのは人種・民族をはじめとした差別、いじめだ。これはイオルフ、レナトのような人間以外の特別な種族が用意されていることでわかる。二つ目、マキアがエリアルを拾い上げるシーンからは育児放棄や貧困問題が浮かび上がる。また三つ目として、イオルフが長命な種族であるという設定を活かし、長大な時間の中での人々の出会いと別れを描写していることも明らかだろう。他にも戦争や国家の盛衰など、小テーマは散見する。しかし、本作では母子というテーマが一本の柱として物語を貫いていることが容易に分かる。これがファンタジー世界を舞台にしたメリットである。つまり、ファンタジー(ここでは今の異世界ものとほぼ同義)は設定を自由にカスタマイズし、主題を最も明確に描けるプラットフォームとして用いられているのだ。

 学校における少年少女やSFにおける科学技術と違い、ファンタジーにおける差別やいじめ、出会いと別れといったテーマはファンタジーという言葉から容易に連想される言葉ではない。ファンタジーにおいてのそれは魔法だ。しかし、魔法は既に排除されている。物語序盤から母子の関係を視聴者に徹底的に意識させることで、先述した小テーマたちは背景化されるのだ。小テーマが背景化されることで物語の軸は母子というテーマに定まり、ブレることはない。

 しかし、ここで一つ疑問が立ち上がる。母子物語を強調するならなぜ小テーマを排除しなかったのだろうか。小テーマも無くしてしまえば、より物語は母子の関係にクローズアップされたのではないかと考える方もいるだろう。

 ここには岡田の作家性が表れている。岡田は『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』[2]で言及しているように、DVやいじめの影響で学生生活の多くの時間を引きこもりとして過ごした。ここでも挙げられている『あの花』、『ここさけ』はこの体験をベースに描かれており、岡田の作品にいじめ、差別、DVといった要素は必須項目だ。母子物語を描く上でも、そこを切り離して考えることはできなかったのではないだろうか。

 岡田の思い描く母子物語には差別とすれ違いが溢れていて、中世ヨーロッパを舞台にした童話とは似ても似つかない複雑な人間関係が描かれている。『さよ朝』という作品は、真っさらなフォーマットに描かれた現代の母子像のあり方を示していると言える。母子の物語をしがらみなく描き、より純度の高い人間ドラマへ挑戦すること。これが、岡田がファンタジー的世界観を本作の土台として選択した理由ではないかと筆者は考えている。岡田麿里というフィルターを通して描かれる母子の物語は、鋭敏に現代日本の家族を批評しているのだ。

 

[1] 『思想地図 vol.4』(2009)に掲載された座談会。東浩紀宇野常寛黒瀬陽平、氷川竜介、山本寛が参加している。

[2] 2017年に出版された脚本家・岡田麿里の自伝。制作の源泉となっている学生時代の苦悩を綴る。