okamurashinnのブログ

表象文化論、アニメーション、キャラクター文化、現代美術に興味があります。

『HELLO WORLD』レビュー

フラクタル構造のように無限に分岐する京都。

その可能世界の一つが主人公・堅書直実だった。

 

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本作は、一人の人間が選択する行動によって分岐する世界を描写している。

最近のアニメ作品では、『彼方のアストラ』(2019)が近いテーマを掲げていた。生物学的に同じ人間であるはずのクローンが、異なる経験によって異なる人間として成長する。『彼方のアストラ』はその差を、人との出会いとかけがえのない友情・絆という形で描き切ったが、本作はそれとは少し異なる角度から分岐する世界を描く。

本作の序盤パートを見ているとき、最強マニュアルは攻略本で、この作品世界は「ギャルゲー」じゃん、などと私は思っていた。しかしこれは少し間違っていた。ノベルゲームの選択肢は数えるほどしかないが、直実という存在は無限とも言える選択肢と分岐をこの世界に見出したのだ。それが自動修復プログラムに抗うということであり、ラストの無数の可能世界だった。

つまり、人間を形づくる上での選択と結果を物語世界の構造にまで落とし込もうとしたのが本作だった。ただのデータであったはずの直実が選択していく様は、僕たちがシナリオ通りに動いている人形だと思っていたキャラクターにも選択できる主体性があるのではないかと提言するかのようだ。

 

 

キャラクターを一つの意思を持った主体として描く一方で、ある種のプログラムのように見せているのも本作である。

僕が「ギャルゲー」じゃん、と思った理由はここにもあった。オタク文化でお馴染みのクーデレという典型的な属性の一つを、ヒロイン・一行瑠璃が忠実に実行しているのだ。一行さんは登場時、古風な堅物キャラとして描かれる。携帯もろくに使えないし、マシーンのような丁寧語が似合う完璧な容姿。しかし、直実が彼女と親交を深めるごとに、彼女はデレの部分を見せてくる。素っ気ない語調が減り、可愛らしい振る舞いと表情を徐々に見せるようになる。彼女自身のぎこちない振る舞いと3DCGモデルの動きのぎこちなさ・演出の大袈裟さも、クーデレという不器用な属性を体現する。まさにクーデレヒロインとして彼女はパーフェクトなのだ。

それに対して、可愛らしさの極地として描かれる三鈴は、キャラデザ/作監堀口悠紀子がこれまで積み上げてきた女性キャラの完成形だ。少女漫画のような、笑顔とともに出てくるキラキラしたエフェクトと、洗練されたポーズにその可愛さは象徴される。ヒロインたり得る2人には、明確な属性がインストールされていたのだ。

一行さんは理想のクーデレヒロインとして描かれることに加え、システマティックな存在にも見える。彼女の行動はどこまでいっても直実/ナオミの選択に依存し、彼の決断から弾き出された結果、つまりはプログラムそのものではないのか。ヒロインがそれぞれの属性を忠実に実行し、その行動は主人公・直実に規定されている。これが僕が感じた「ギャルゲー」らしさの全貌だ。

 

本作はキャラクターの中に潜む主・従の関係をSF的枠組みを使って見せようとした作品と言えるだろう。どこまで意図したものかはわからないが、直実と一行さんをこの表現・脚本で描いたことでキャラクターの本質の一片を見ることができた。

 

 

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映画『HELLO WORLD(ハロー・ワールド)』予告【2019年9月20日(金)公開】 https://youtu.be/shoWFRnNoWw

 

ただ、この作品の演出の物足りなさは欠点としても見られるべきだろう。先述の理由でぎこちない動きの告白シーンは非常に良かったが、河原で好きな本について2人で語り合うシーンの美しい一行さんのショットは、一枚絵としての迫力と繊細さに欠けて見えてしまった。それはクーデレという属性を離れ、ただ美しいだけの一行さんを切り取ろうとした結果だったのかもしれない。

グラフィニカ元請のオリジナルアニメ『楽園追放』(2014)は、その電脳世界という設定と3DCGという手法が物語レベルでもビジュアルレベルでもマッチしていた。それに対して本作は、データ上とは言っても、舞台にしているのは実在する京都の街並みだ。背景は緻密な描き込みがされているだけに、3DCGキャラとの調和は難しく見えた。常にモデルと背景がレイヤーとして分離する本作の作品世界は、鑑賞者に作品世界とキャラとのズレを意識させる。それが意図的なものだったとしても、鑑賞者には作画崩壊を見たときのような違和を感じさせることになるだろう。セルルック3DCGにおいて着実にモデルと背景の距離は縮まっているように見えるが、本作を見てもわかるようにまだ完成という段階には至っていない。

 

 

 

かなり大雑把ではあるものの、僕が感じた「選択する直実」と「規定される一行さん」という構図から作品の主題を読み解いてみた。堀口悠紀子がコアとなって原画からつくり上げていたと思われる一行さんと三鈴は抜群にいいキャラだったのがとても印象的な作品だった。堀口絵は3DCGに合う! と『22/7』に引き続き思わせてくれた反面、その演出のハードルはいまだ非常に高いことが見てとれた。

また、扱っている主体と選択についての問題提起は推せるのだが、これは終始主人公・直実/ナオミの問題であり、一行さんは物語上ギミックとしてしか存在していないように感じた。「あなたは型書さんじゃない」という一行さんのセリフもあったが、これは一行さんの意志というよりかは、直実/ナオミのアイデンティティ確認の意味合いの方が強かっただろう。キャラクターの演技としては生き生きしていた一行さんと三鈴であったが、物語レベルでは死んでいたのが非常に残念だ。このレビューをそのまま受け取ると、意図して殺していたということになってしまうが。