okamurashinnのブログ

表象文化論、アニメーション、キャラクター文化、現代美術に興味があります。

『リズと青い鳥』公開初日レビュー

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 『響け! ユーフォニアム』の外伝的な立ち位置である、映画『リズと青い鳥』(以下、『リズ』)が4/21(土)に公開された。筆者も期待に胸を踊らせ、本日朝一番の回で見てきました。その興奮のままに、本作の簡単なレビューをしようと思う。ネタバレ記事になりますので、ご容赦を。

 

映画『リズと青い鳥』概要・あらすじ

 本作は田中あすかたちが卒業し、黄前久美子高坂麗奈が2年生になった年を描いた物語。3年生・鎧塚みぞれ(以下、みぞれ)の視点を中心に物語は展開していく。

 前の年に中学からの親友であった傘木希美(以下、希美)と仲直りをし、二人で仲良く練習していた彼女たちだったが、新しい学年に上がることで彼女たちの環境は変化していく。新1年生が入部し、希美が後輩と仲良くしていくことでみぞれは希美との距離をまたしても感じることになる。その距離感がコンクール自由曲『リズと青い鳥』のフルートソロとオーボエソロの不安定さを招くことになる。希美とみぞれの音が上手く響かないのだ。

 作中に出てくる童話・小説『リズと青い鳥』は少女・リズと人間の姿になった青い鳥の束の間の共同生活を描く物語だ。最終的に孤独そうに見える自分のために一緒に暮らしたいと言った青い鳥を、リズは本来の空へ帰すことで別れを告げる。

 みぞれは青い鳥を解き放ったリズの気持ちがわからずに苦しんでいた。彼女が希美を手放せないように、みぞれ自身がリズであったとしても青い鳥を解き放たないと彼女は言う。その苦しみは、希美がまたいつ自分の元を離れてしまうかわからない苦しみと重なり合っていく。

 希美の後ろ姿を必死に追おうとするみぞれの元に、新山先生から一つの提案がなされる。音大受験の誘いだ。当初はそこまで乗り気ではなかったが、希美がその話を聞いたときに私も行こうかなと言ったことで、みぞれは当然のように音大行きを即決する。

 みぞれの希美に対する異様なまでの執着・依存に不安を感じたのは希美だけではなかった。優子はみぞれに確認する。本当に音大に行きたいのかと。みぞれはこう返す。希美が行くから私も行くのだと。優子はその執着・依存に一抹の不安を感じながらも、みぞれがそう思うならと経過を見守ることにする。

 空転する希美のフルートと抑えつけられたようなみぞれのオーボエは、どこまで辿っても交わらない平行線のように描かれる。希美とみぞれの距離が開きながらも、時間は進んでいく。後輩・剣崎梨々花(以下、梨々花)にリードの彫り方を教えて欲しいと頼まれたみぞれは彼女の頼みを聞き入れる。それはみぞれにとっては少しの心境の変化だったのかも知れない。しかし、梨々花にとっては初めてみぞれが心を開いてくれた瞬間であり、梨々花自身がコンクールに出られないと決まった後のことでもあった。その後、希美とプールに行くときに梨々花も誘うことで、みぞれは後輩との関係も徐々に築いていく。

 希美はふと気づく。自分は本当に音大に行きたいのかと。否、希美はみぞれと並んで演奏をしたいから強がりで音大に行くと言ったのだ。みぞれはリズの気持ち気づかされたことで、自分の持てる力をぶつけてオーボエを吹くしかないのだと感じた。そうしてはみぞれは伸びやかに美しいオーボエを吹いて見せたのだ。みぞれはいつ終わるかわからない恐怖と隣り合わせで人気者の希美に好意を寄せ続けていたが、足枷をされていたのは希美だけではなかった。みぞれと一緒に演奏したいという希美の想いは、彼女の実力不足が故に、みぞれの演奏のスケールを小さくしてしまっていたのだ。

 足枷を外されたみぞれのオーボエは美しい音色を響かせ、希美の震えるフルートの音とは対比的に描かれる。この音合わせを境に彼女たちの行く道は決定される。みぞれは音大へ、その圧倒的な才能の差を受け入れた希美は大学受験へとそれぞれの道を歩むことになる。しかし、彼女たちにとっての別れは必ずしも悲しみには直結しない。希美は別れるリズと青い鳥に対してまた会えばいいと言うし、みぞれは希美の選択を尊重すれば、一番彼女が喜んでくれることを知っていたから。こうしてお互いの気持ちを確認できたところでこの作品の幕は閉じられる。

 

ポイント解説

 本作を語る上でのポイントはいくつかあるが、要点だけ抜き出してみる。

 

  1. 「恋」に揺れ動く少女の機微が丹念に描かれている
  2. その感情の機微を物語るのは「言葉」ではなく、アニメーションと音である
  3. キャラクターは彼女たちの関係を表すように細く崩れそうな線で描かれる
  4. 親しい人との別れとどう向き合っていくか

 

 

1. 「恋」に揺れ動く少女の機微が丹念に描かれている

 山田監督は『リズと青い鳥』パンフレットのインタビューでこんなことを言っている。

 

これ、愛というより、「恋」なんですかね。愛は少し離れることがあってもまた戻ってくる可能性の方が大きいし、そこに安心感がありますもんね。恋はそうじゃないですもんね。。。

 

みぞれは希美にいつか見放されてしまうのではないかという「恋」のような不安を抱えながら日々を過ごしていた。ことの発端を知るには中学時代まで遡らなければならない。

 みぞれと希美、二人の関係はシリーズを通してみぞれの不安に満ち満ちた視点から描写される。アニメ『響け! ユーフォニアム2』(以下、『響け! 2』)では5話までにみぞれのトラウマと希美の関係について描かれていた。希美は中学時代から集団の中心になり、人を惹きつける魅力を持っている。人とのコミュニケーションが苦手なみぞれを吹奏楽部に誘ったのも希美であり、みぞれにとって吹奏楽は希美と自分をつなぐ架け橋であり続けた。高校でも吹奏楽を続けていた二人だったが、希美は先輩とのいざこざで退部することになり、必死にオーボエを練習していたみぞれを見て安心した希美は、みぞれを誘わずに吹奏楽部を退部する。退部を事前に知らされていなかったみぞれにとって、それは希美に捨てられたことと同義であり、強いトラウマとして彼女の中に残ったのだ。しかし、『響け! 2』5話で二人はそのすれ違いを対話することで解消する。そうして、みぞれと希美は元の仲に戻ったのだった。

 こうした状況で迎えた翌年、彼女たちは3年生になった。3年生は別れを意識する学年だ。社会を前にして就職するのか大学に進学するのか、はたまた別の選択肢かと、これまで思考が停止していた将来に関して考えなければいけなくなる時期である。別れに敏感なみぞれは、卒業というイベントを否が応でも意識せざるを得ない。『リズ』は、彼女たち二人の関係を見つめ直さなければいけない状況が描写される作品と言えるだろう。

 「恋」はみぞれの片想いとして描かれ、その想いは執着と言えるほどに重い。後輩と話す希美に向かって、みぞれはこっちを見て! と言わんばかりの視線をひたすらに希美に投げかける。嫉妬、希美を占有したいといったみぞれの想いは、そのみぞれの振る舞い、画面のカットから滲み出ている。それに対して希美は微笑んで軽やかに返すのだ。希美にとってみぞれは特別な友だちではあるけど、「恋」ではない。希美は決して、みぞれが占有する彼女にならない。

 故に、希美をいつ失ってもおかしくないと感じ続けているみぞれの不安・緊迫感が、物語全体の張り詰めた雰囲気を支え、「言葉」で伝えられないようなみぞれと希美のお互いに対する複雑な感情が絡み合うことで物語を紡いでいくのだ。

 

2.その感情の機微を物語るのは「言葉」ではなく、アニメーションと音である

 そして、『リズ』という作品の中核にある二人の感情は「言葉」によって過剰に語られることはない。二人の足どり、仕草、距離感、映されるモチーフ、靴の音、楽器の音色、BGMを含めた音楽、声のトーンのような感情に対して直接的にはならないような表現を総動員することで動画は構成されている。感情を表す説明的な「言葉」は過剰に使うことで意味を持ちすぎるのだ。重要な場面で「言葉」が使われることで、その力が発揮される。そして、これほどまでに迂回を重ねることでアニメーションはポエティックな表現に昇華する。私たちは『リズ』を鑑賞するとき、静かで美しい音楽を聴きつつ小説のページをめくるような体験をできたはずだ。

 その例として顕著なのは、冒頭の朝練に向かうシーン。水滴が落ちるような音が響くBGMを背にして、みぞれは希美を待つ。画面に映るみぞれの視点は少し揺れながらも、希美がひょこっと出てくるであろう校門の端っこ一点を捉える。希美ではない生徒に落胆するも、次に希美が現れる。みぞれは立ち上がり、今日も希美に会えたことを祝福するかのような仕草と音が画面に広がっていく。希美の歩く後ろをついていくいつもの景色が、みぞれの視点から画面に映る。希美の跳ねるようなステップは彼女の活発さを端的に表し、みぞれを惹きつける。軽やかなBGMがそこに組み合わさっていくことで、希美についていくみぞれの楽しい感情が画面を通して伝わってくるのだ。そんな感情を直接伝えるような過剰な「言葉」は『リズ』には不要である。

 しかし、アンビバレントな気持ちを強調する意味での「言葉」は強い力を持つ。例えば、みぞれの「希美と一緒ならそれでいい」という主旨の「言葉」は『リズ』の中でひたすらに反復される。これはみぞれの意志を強く反映する「言葉」であるのだが、その過剰さが却ってずっと一緒であることの不可能さを強調するような演出となっているのだ。

 また、みぞれと希美が使う「音大に行く」というフレーズはあまりにも多様な感情が込められている上、その意味は変化していく。

 みぞれから考えてみよう。みぞれがこのフレーズを意識したのは希美が「音大に行く」と言ったときからだ。みぞれにとってこのフレーズは、「希美と一緒に」行くことに一番の力点を置いており、希美と離れないことを象徴するものとして機能した。しかし、希美が一般の大学を目指すことを決めたあとはどうだろうか。みぞれにとってこのフレーズの意味は、希美が好きな自分のオーボエの音色を研鑽し続けるために頑張るという意味を持っていると考えることができる。

 対して希美の「音大に行く」は、後半の希美自身の述懐を信じるなら、みぞれのオーボエと対等に演奏しても恥ずかしくないフルート演奏の実力があると自分に信じさせるためのフレーズだった。しかし、終盤みぞれとの第三楽章合わせのときに感じた、みぞれとの圧倒的な才能・実力の差は希美には超えられない壁として理解される。そして、「音大に行く」というフレーズは跡形もなく消え去ってしまった。

 このように、物語を支える重要な「言葉」は本作では効果的に扱われる。意味のない「言葉」の過剰さは存在しない。(と言っても、みぞれと希美が大好きのハグをするシーンが後半に挿入されるのだが、ここでの「言葉」の応酬はやや意味のない過剰を帯びていたように感じる。みぞれをオーボエ奏者として見たときに、青い鳥として認識されたという事実は「言葉」を使わなくてもその画面と音から視聴者には十二分に伝わってきたはずである。少し丁寧な導線を引きすぎた感はあった。)

 

3.キャラクターは彼女たちの関係を表すように細く崩れそうな線で描かれる

 テレビで放送された『響け! ユーフォニアム』シリーズの池田晶子が担当したキャラクターデザインは一新され、『日常』、『氷菓』、『Free』、『聲の形』のキャラクターデザインを担当した西屋太志がこれを引き継いだ。先述のパンフレットでの西屋のコメントを引くと、

 

今回は感情の機微を丁寧に描いていく作品ですので、イメージとしては、少女漫画のような繊細さがより出せるキャラクターデザインにしたいと思いました。見た目では、等身を高めにし、首はすらっと長く、手足も細くしています。(中略)ある意味では色気をあまり感じさせないデザインになっているかと思います。

 

こうコメントしている。池田の丸くて可愛らしいデザインは、泣いても笑っても快活な雰囲気を漂わせるテレビシリーズには最適なものだったが、みぞれと希美が響きあう閉鎖的な空間としての本作にはマッチしないと山田監督は判断したようだ。

 西屋の繊細で壊れそうなデザインはみぞれを描くにはぴったりすぎるくらいのものなのだが、希美を表現するときにはどういった効果を生むのだろうか。本作でどうしてもクローズアップされるのはみぞれの希美に対する依存度の高さと不安定な心の動きだ。その張り詰めた雰囲気とこのデザインは、快活に振る舞う希美という少女の不安定さを炙り出すにも最適な表現方法だった。フルート奏者として希美が対等に掛け合いをしなければならない、オーボエ奏者・みぞれの底知れない才能への怖れ・嫉妬が快活な少女から零れ落ちていく。その感情を拾う機能の一つが、この細く崩れそうな線で描かれた繊細なキャラクターデザインであったのだ。

 

4.親しい人との別れとどう向き合っていくか 

 親しい人との別れについては、以前の

t.co

こちらでも詳しく書いたと思う。重要なテーマであるが故に、また別の機会にこれを中心に据えて記事を書くことがあるかも知れない。この項目では、『リズ』における別れについてだけ追っていこうと考えている。

 本作を解釈する上で別れを意識せざるを得ないことは(1)でも述べたと思う。これを象徴するように冒頭で「dis joint」という単語が画面に示される。そのまま別れる・離れるという意味で取っていいだろう。ここで別れとして考えられることは、みぞれと希美が別の進路を辿り離れ離れになることだろう。

 (1)で論じたように、みぞれにとっての希美はただただ全てを好きにならずにはいられない魅力的な人物だった。その彼女との別れというのは、すなわち彼女自身のほとんど全てをなくすことに等しいと考えていい。テレビシリーズでは優子に諭され、オーボエを吹くことそれ自体が好きだと自覚させられていたとしても、だ。それだけ彼女の中で希美のウェイトは重かったと考えられる。希美を失ったみぞれの様子は、『響け! 2』の5話までで確認することができる。なぜオーボエを吹き続けているかも分からずに、目標を失った彼女がそこにいた。かと言って、希美を取り戻したみぞれにも大きな欠陥が存在した。全ての原動力を希美に集約させてしまっている点だ。みぞれの行動のキッカケ・理由はほとんど希美にあると言っていい。「dis joint」はその意味で言えば、自立への第一歩と受け取ることもできる。本作でも意識される卒業のように、人と物理的に離れざるを得ないタイミングは必ずやってくるのだ。

 そして、みぞれの別れへの意識は終盤に向かい、希美や高坂麗奈、新山先生との会話の中で変化していく。高坂麗奈の、希美に合わせてスケールダウンした感じの演奏をするなという鋭い指摘や、新山先生との『リズと青い鳥』のリズの心境について考えるシーンは重要だ。みぞれは当初、自分をリズに見立ててリズの心境を考えていた。自分がリズだったら青い鳥・希美を解き放てないだろうと。しかし、新山先生に指摘されたのは、もし自分が青い鳥だったら、リズ・希美がどのような心境で自分を解き放っていただろうかということだった。みぞれは、リズがそう願うのなら青い鳥は旅立つことでしかリズの期待に応えられないという結論を導き出す。

 リズ・みぞれは後輩たちを含めて多くの人に好かれる青い鳥・希美を自分という檻から解放できない、希美を占有したいという嫉妬心に満たされていた。しかし、リズ・希美は青い鳥・みぞれのオーボエ奏者としての圧倒的な才能に気づき、自分のフルートとでは釣り合わないことを悟ったからこそ、みぞれを自分という檻から解き放たなければいけないと決意したのだ。そのことをこの時点でみぞれが完全に理解していたとは思わないが、希美の「みぞれのオーボエが好き」というフレーズによって希美の想いは了解される。

 お互いの想いを「言葉」にするという儀式、大好きのハグに付随する「言葉」の交換によって想いは共有される。視聴者にとっては過剰な言葉に見えると先述したが、二人がそれぞれの想いを共有する上で重要な「言葉」の交換であったことには間違いない。

 このように二人の間での想いが共有されることで、別れ「dis joint」という単語は「dis joint」と書き直されることでこの作品は終わりを迎える。つまり「joint」である。繋がるという意味を持つこの単語は、アンビバレントな意味を持つ。進路が音大と普通の大学に別れてしまったみぞれと希美の関係は「dis joint」するように見えるわけだが、想いを共有し、お互いによき理解者として最良の道を選んだ二人の進路はたまたま違ってしまっただけで、その想いを共有しているうちは「joint」している。つまり、心と心が繋がっていれば、物理的な「dis joint」程度は「joint」に書き換えられるという意味で理解できる。こうして、別れが悲しいという価値観は『リズ』というフィルターを通すことで転換されていくのだ。

 

結びに

 本作が成し遂げたこととして最も強調しなければいけない点は、従来のアニメがその物語を言葉や台詞でキャラクターに語らせていたところを、『リズ』はアニメーションとしての動き、演出、音響でその物語のほとんどを語らせてしまったことだ。しかも、その物語の内容は二人の少女の揺れ動く感情であり、ほとんどポエティックな世界に足を踏み入れている。それを小説や詩のように「言葉」で表現するのではなく、アニメーションという動く絵と音を組み合わせたメディアで成し遂げてしまったのだ。実写の映像作品でも、文学でも到達できないような領域に(アートアニメーションではない)日本のアニメーションが 足を踏み入れた瞬間である。そういった意味では、記念碑的な意味合いを持つ作品として本作が評価される日が来るのかも知れない。

 

 

※本稿で示した『リズ』の内容は本日鑑賞した僕の記憶によるものです。実際のあらすじとは異なる場合もありますのでご了承ください。

アニメにおける涙-『響け! ユーフォニアム』をめぐって(前編)

 先日、アニメ『響け! ユーフォニアム』(以下、『響け!』)の1期と2期を通して見たので、ちょっとしたコラムを書こうと思う。

 

 まず最初に、簡単な作品説明をしたい。『響け!』は武田綾乃による小説『響け! ユーフォニアム』を京都アニメーションがアニメ化した作品。一期は2015年に1クール、二期は2016年に1クールで放送された。監督は京都アニメーションを初期から支えている石原立也。脚本は『ラブライブ!』、『宇宙よりも遠い場所』など青春グラフィティの緻密さに定評のある花田十輝。キャラクターデザインは『涼宮ハルヒの憂鬱』などを手がけてきた池田晶子

 主人公・黄前久美子(以下、久美子)が北宇治高校に入学し、高坂麗奈(以下、麗奈)をはじめとした部活の仲間と衝突しながら吹奏楽全国コンクールを目指す青春グラフィティ。アニメでは3年生の先輩が卒業するまでの1年間を描く。

 

 僕が『響け!』を見ていて気になったのは、久美子と麗奈が泣くタイミングだ。周りの先輩や同級生はよく泣くアニメだが、この2人が泣く回数は見た印象ほど多くはない。そこで、最初にこの2人が泣くシーンを調べてみた。以下が久美子と麗奈が涙を見せるシーンである。

 

久美子の涙

1期

  • 10話Aパート 夏紀先輩オーディション落選後のおごり
  • 11話Bパート 麗奈ソロオーディション合格
  • 12話Bパート 上手くなりたい! と叫びながら走る

2期

  • 1話後半 着物がキツく、母に太ったと言われ
  • 5話Cパート 関西大会結果発表
  • 10話Aパート お姉ちゃんが家を出る決断を話した次の日の電車
  • 10話Bパート あすかへの説教
  • 12話Bパート 全国大会後、お姉ちゃんとの別れ
  • 13話Aパート あすかとのことを思い出しながら練習
  • 13話Bパート あすかとの別れ

 

麗奈の涙

1期

  • 1話Aパート 中学の大会回想
  • 13話Bパート 京都大会結果発表

2期

  • 1話Aパート 京都予選終了後
  • 5話Cパート 関西予選結果発表
  • 11話Aパート 滝先生に奥さんがいたことを山頂で語る

 

このように、どこを取ってもストーリー展開上重要なシーンが並んでいる。これらのシーンをつなぎ、アニメにおける涙の効果と意味を考えていく。

 上記のシーンを一つずつ視聴すると、久美子の涙はいくつかの条件下で現れている。一つは久美子の過去のトラウマ。一つは久美子と麗奈の関係。一つは久美子とあすか・お姉ちゃんとの関係。各シーンからそれぞれの涙を分析する。

 

過去のトラウマ

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 1期10話で2年生の夏紀はオーディションに落ちてしまう。全国大会では久美子とあすかの2人がユーフォニアムを担当することになる。このシーンはオーディションに先輩を差し置いて受かった久美子に、夏紀が声をかけるという場面だ。夏紀は自分の実力不足を理解しており、久美子の方がコンクールで演奏するに相応しいと説明する。

 中学のときに先輩を差し置いて自分が選抜されたときに、その先輩から、お前がいなければコンクール出られたのに、と久美子は言われた。中学での経験がトラウマとして久美子の記憶に刻まれていることが示唆されている。滝先生がオーディションをやると言ったときから、久美子は先輩を差し置いてコンクールで演奏することに引け目を感じていたのだ。そして、高校でもそれが現実になってしまった。

 しかし、落選した夏紀が中学の先輩と違ったのは、自分の力不足を受け入れて後輩のせいにしない潔さを持ってたことだった。夏紀は久美子のトラウマの原因となった中学の先輩と正反対の態度を取ることで、意図せずに久美子をトラウマから救い出したのだ。その救いを受け止め、久美子は涙を流したと推測することができる。

 

 麗奈との関係

 一期11話のソロパート選抜オーディション、12話の「上手くなりたい!」と叫びながら走る、二期5話の関西大会結果発表。この三つの涙を語るには、久美子と麗奈の関係を振り返らなければならない。

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 二人の関係を整理しよう。二人は同じ中学で吹奏楽部員としてコンクールに出ていた。京都大会でダメ金(関西大会にはいけない金賞)を取った彼女たちの中学だったが、彼女たちの反応は正反対だった。久美子は金賞を取ったことに対して満足していたが、麗奈は関西大会に行けないことに対してとても悔しがっていたのだ。久美子は中学の人間関係をリセットするために、みんなとは違う北宇治高校を選んだわけだが、なぜかそこにはその麗奈がいた。麗奈に中学最後のコンクールのときに「本当に全国行けると思ってた?」と言ってしまったことを謝るべく、麗奈と接近する久美子。久美子と麗奈はともに同じ吹奏楽部に入り、再開を果たすのだが、、、

 ひょんとした理由から一期8話であがた祭に一緒に行くことになった二人は急接近する。中学最後のコンクールのときのように、たまに本音をぽろっとこぼしてしまう久美子に対して、麗奈は「性格悪い」と興味津々だったのだ。久美子は麗奈の目標に対する向上心や「特別になりたい」と言う姿に憧れ、そして麗奈は久美子のどこか捉えどころがなく、痛いところを突いてくる本音がぽろっと溢れてくる直球さに興味を抱いた。2人はお互い全く違う感性を持っていることに気づき、惹かれあったのかもしれない。

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 その中で、麗奈は「特別」になるために先輩を押しのけてトランペットのソロパート奏者に抜擢される。麗奈は最大のライバルであった3年生の香織や、どうしてもソロを香織に演奏してほしい2年生の優子とのいざこざに巻き込まれる。麗奈は香織の人の良さに戸惑い、本当にそのままソロを演奏してもいいのか葛藤していたことは、11話のソロオーディション前の久美子との会話からも分かるだろう。

 久美子は麗奈の数少ない理解者として、麗奈が麗奈らしくあるためにソロ奏者になってこいと背中押すのだ。こうして、麗奈が改めてソロ奏者に決定した後に久美子は泣く。久美子が好きな麗奈の生き方が守られた瞬間だった。

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 久美子は高校入学後に初めての挫折を経験する。久美子は麗奈と二人で話したことで、麗奈と一緒に全国大会へ行きたいという目標が生まれていた。麗奈の「特別になりたい」という台詞は久美子にも響き、彼女も「特別」を目指すために、ユーフォ二アムの追加パートを練習する。しかし、練習の先にあったのは京都大会では、あすかのみでそのパートを演奏するという滝先生の非情な決断だった。

 久美子はそこで初めて、全力で努力しても届かない目標、挫折を経験する。思い出されるのが中学時代の京都大会で見せた麗奈の涙だった。挫折を経験するには、相応の努力をしなければいけない。そんなことを改めて確認できる涙だったのだと思う。

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 13話で無事、関西大会を果たした北宇治高校。麗奈は金賞を取った時点で既に泣いている。ダメ金の可能性もあったのに、なぜこのタイミングで泣いているのだろうか。中学時代のリベンジを果たすという伏線が思い出されるシーンなのだが、その涙の質は異なっている。今回の涙は明らかに嬉し泣きだ。麗奈にとっての大きな変化は、香織をはじめとした上級生の思いや期待を背負ってソロ奏者としてコンクールに挑んでいたこと、そして久美子というお互いをよく知る仲間・ライバルができたことだろう。

 自分のためにトランペットを演奏していた麗奈が、人の期待を背負うことで感じた重圧は計り知れない。その重圧を乗り越えた麗奈は「特別」にまた近づいたはずだ。なぜなら、こんな重圧を抱えて結果を出せるような高校生はそうそういないからだ。麗奈はコンクールの結果を通して「特別」を追求しているが、それ以上に久美子にとっての麗奈はとびっきり「特別」に見えたに違いない。

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 二期5話で、北宇治高校は全国大会出場を決める。このシーンでは久美子と麗奈が2人とも泣いているのだが、どうして久美子は関西大会出場では泣かずに、ここで泣いてしまったのだろうか。

 久美子がユーフォニアムにかける思いは二期の中盤にかけて変化していくのだが、関西大会に向けての思いは「特別になりたい」だったと思う。麗奈との圧倒的な才能の差を感じながらも、「特別になりたい」一心で練習に打ち込む久美子。京都大会では演奏できなかったパートも、その後滝先生に認められ、あすかと二人で担当することができた。麗奈とレベルは違うものの、自分に相応しいハードルを越えていくことで久美子も彼女にとっての「特別」に近づいていく。そのマイルストーンの一つとして機能していたのがコンクールだった。

 二期5話まではみぞれと希美の過去の関係の修復が中心に描かれているのだが、ここの裏テーマは「コンクールの意味」だっただろう。みぞれと希美の関係もコンクールを起点に描かれている。久美子もコンクールがどんな意味を持っているのか、改めて考え直している。優子はいい結果だったら納得してたかも知れないといい、麗奈はコンクールを批判できるのは上手くて結果を出した人だけと言う。久美子にわかったのは、コンクールで納得できる結果を出すことだけが、コンクールを好きになる方法だということだった。結局、練習して結果を出すことでしか納得できない、エゴイズムに溢れた場所なのだ。だからこそ、コンクールは久美子、麗奈、そして吹奏楽をしている人たちにとってのマイルストーンであり続けているのだろう。

 ユーフォニアムを上手くなりたい一心で練習し続け、コンクールのマイルストーンとしての機能を理解できたからこそ、久美子は全国大会出場が決まったこのタイミングで泣いたと言えるのではないだろうか。この涙は、久美子の努力の歴史でもあるのだ。

 

 

 ということで、後編に続きます。後編は週末の更新を予定してますが、遅れたらごめんなさい。

 

 

友情と離別の物語-『宇宙よりも遠い場所』レビュー

 2018年1月から放送が開始されたアニメ『宇宙よりも遠い場所』(以下、『よりもい』)。本作は『さくら荘のペットな彼女』や『ハナヤマタ』で監督を務めたいしづかあつこが監督、『中二病でも恋がしたい!』や『ラブライブ!』、『響け! ユーフォニアム』など多くのシリーズ構成を手がけてきた花田十輝が脚本を担当する。『ノーゲーム・ノーライフ』に続きいしづかと花田がタッグを組むのは2作目で、南極を目指す少女たちの青春物語を描くと銘打って『よりもい』は放送された。

 

 本作のテーマが「友だちと青春」であることは間違いないのだが、「離別」をしっかりと描けていることが重要だ。宇野常寛ゼロ年代の想像力』でも頻繁に言及されていることだが、人間の出会いと別れは常にセットだ。ゼロ年代を乗り越え、10年代を生きる私たちにとって永遠に変化しない共同体は幻想でしかない。いかに人と出会い、時間を共にして別れていくか。その人との交流の記憶を人生の糧にして生きていくことが10年代で最も語られなければいけないことだったと僕は思う。

 そして、『よりもい』は10年代を総括するアニメとして、最も重要な位置を占める存在になるだろう。なぜなら青春時代における人と人との出会いから別れまでを、あらゆる角度・キャラの関係から過不足なく描けている作品だからだ。

 『よりもい』を考察する上で、重要になってくるのはキャラの関係だ。この作品の主人公はキマリこと16歳の少女・玉木マリなのだが、玉木マリ、小淵沢報瀬、三宅日向、白石結月のメインメンバー4人の悩みを解決しながらストーリーは進行していく。この作品は以下のようなテーマを軸にし、「友情と離別」が描かれていると考えるとわかりやすい。

 

1.キマリの青春(報瀬)に対する憧れと恐怖

2.めぐみのキマリや報瀬(青春)に対する嫉妬

3.日向と友だち

4.結月と友だち

5.報瀬と貴子と吟

 

本稿では以上の5つの項目に注視しながら『よりもい』のメインテーマとして語られる「友情と離別」の全貌に迫っていく。

 

1.キマリの青春(報瀬)に対する憧れと恐怖

 主人公キマリはなにか新しい挑戦を始めようとしているものの、まだ一歩踏み出せていない高校二年生。第1話「青春ひゃくまんえん」では踏み出すことへの恐怖と、新しい挑戦への身震いが描かれている。砕氷艦しらせの船影が見え、そのあとにキマリのモノローグが入る。セピア色の画面にキマリが小さい頃に砂場遊びをしていたときの映像を流しながら、彼女はこう語る。

「淀んだ水が溜まっている。それが一気に流れていくのが好きだった。決壊し、解放され、走り出す。淀みの中で蓄えた力が爆発して、全てが動き出す。」

のちの南極に行くまでのジェットコースターのような展開を予感させるシーン。そう、この1話はキマリが見たことない世界へ一歩踏み出す話だ。

 自室で夢から覚めたキマリがたまたま手に取るメモ帳には、4つの項目が書いてある。「日記をつける」「一度だけ学校をサボる」「あてのない旅に出る」そして次のページに「青春する」そう書いてあった。これらの項目は青春ものの深夜アニメでもずっと扱われている題材で、例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』の涼宮ハルヒは市内探索や孤島へ合宿に行くし、夏休みをSOS団の面々と楽しんだり、学園祭でバンドのボーカルとして活躍もする。ハルヒは不思議な現象を探すといいながら、その実大切だったのは新しい発見や出会い、友人と遊ぶこと。つまり青春的なイベントだった。『けいおん!』や『ラブライブ!』ではメンバーがそれぞれかけがえのない友人として結束し、バンドやスクールアイドルといった交流を通して青春を謳歌する。『よりもい』もこの例に漏れず、最終的には「友情」というメインテーマに向き合っていくことになる。キマリはそのメモ帳を見たのち、高校に入って1年が経っているのに、どの項目も消化できていない自分を省みる。キマリは「あてのない旅に出る」べく、幼馴染のめぐみに手伝ってもらい旅に出ようとする。しかし、キマリは今までと同じように一歩踏み出すことを躊躇ってしまった。出発しようとした日の雨の描写はキマリの不安を反映するようだった。

 そんなときに彼女の前に現れたのは報瀬だ。新しい挑戦=青春する=南極に行くことという構図で描かれる本作では、そのリードオフマンとして彼女は描かれる。彼女は高校では南極に行くと言い続けていることから変人扱いされる存在だったが、キマリは南極に行くという大きな夢に向けて、恥じらいもせず邁進する報瀬に尊敬の念を抱いていた(1話での応援したいという言葉から読み取れる)。そんな報瀬も、自分と同じ等身大の女子高生だということに気付くことになる。報瀬は100万円を落とすし、確実に行く方法が無いにも関わらず、亡くなった母親のための旅だと言って頑固に南極に行くと言う。抜けたところがある彼女は、自分の至らなさを噛み締めながらも大きな目標に立ち向かっているのだ。報瀬という仲間を得てキマリは南極へと一歩踏み出す。等身大の仲間と一緒なら、同じ目標に向かえるはず。

 報瀬に砕氷艦しらせの一般公開が呉であることを聞かされ、そこに来てくれれば南極に本気でついて来ると信じると言われたキマリは、迷いを抱きながらも自信を持って一歩を踏み出す。今まで踏み出せなかった勇気の一歩、青春の始まりを予感する一歩を、呉に行くことでキマリは引き寄せるのだ。

「私は旅に出る。今度こそ旅に出る。いつもと反対方向の電車に乗り、見たことのない風景を見るために。怖いけど、やめちゃいたいけど、意味のないことなのかも知れないけど、でも!」 

キマリを次のステージに引き上げたのは報瀬だった。それでも、「ここではないどこか」へと行くことを決めたのはキマリ自身であることに変わりない。キマリにとって、そして報瀬にとっての青春は、友だちとの出会いによって動き出したのだ。

 1話で自分の殻を打ち破ったキマリは、2話以降加速していく友だちとの青春イベントにワクワクしながら取り組むことになる。2話で歌舞伎町まで行き、副隊長・前川かなえや鮫島弓子から逃走したキマリが「私の青春動いてる気がする!」と走りながら言い放つ場面や、4話で吟隊長になぜ南極に行きたいのかと問われたシーンでは

「でも決めたのは私です。一緒に行きたいって。このまま高校生活が終わるの嫌だって。ここじゃないどこかに行きたいって」

と答えた。自分の意思に責任を持ち、胸を張って南極行きを表明するキマリに、1話の臆病さは感じられない。8話ではついにフリーマントルを離れて南極へと出港する。

「でも今の私たちは一歩踏み出せないままの高校生ではない。何かをしようとして何もできないままの17歳や16歳ではない」

という言葉が示すように、彼女たちはすでに一歩踏み出した高校生として描かれる。そして、船での生活で苦難に遭いながらも、キマリは自分で決断し、一歩踏み出したことを思い出す。「選択肢はずっとあったよ。でも選んだんだよここを」だからこの場所にいるし、自分たちの決意を胸に彼女たちは進んで行く。

 変化への決断と、自分の変化・行動に責任を負うこと。今まで様々な「日常系」アニメで終点として描かれてきた変化から物語は始まる。「日常系」の終点から一歩外に踏み出す物語を『よりもい』は描こうとしていることがわかる。

 

2.めぐみのキマリや報瀬(青春)に対する嫉妬

 めぐみとキマリは小さい頃からの幼馴染だ。高校もクラスが一緒で、いつも2人で行動している。おっちょこちょいなキマリをいつも横で聞き手役としてサポートしているのがめぐみだ。1話では、めぐみはキマリの一人旅をサポートする形でいた。キマリがやりたいということを見守り、助言するのが彼女の役割だったのだ。しかし1話後半から雲行きが怪しくなっていく。キマリが報瀬と意気投合し、一緒に南極に行くらしいことをめぐみは知る。南極行きに対するめぐみの反応は、当初の一人旅のときとは違い、極めて冷ややかだ。南極観測隊が資金難であることを理由に、行かない方がいいのではないかという主張を繰り返す。これはある意味正しい指摘ではあったのだが、キマリの行動に対して冷ややかであることに変わりはない。めぐみの気持ちは5話に至り明らかになる。

 5話のカラオケに行く場面で今までの冷ややかな態度は顕在化していく。キマリ、報瀬、日向とめぐみはカラオケに行く訳だが、普通に考えて初対面の人とのカラオケは気まずいかも知れない。だが、それにしてもめぐみの嫌悪感はめぐみの帰りたさげな言動から滲み出てくるようだった。そうして、南極行きの朝に事態の全貌が明らかになる。めぐみがキマリの前に現れ、上級生が100万円のことを知っていたこと、キマリの母親が南極に行くことを知っていたこと、他にも様々な悪い噂を流していたのが自分だと告白する。つまり、めぐみは今まで独占していたキマリを報瀬たちに取られてしまう嫉妬から南極行きを阻止しようとしていたのだ。そして自分のキマリに対する独占欲にも今になって気付き、子離れならぬキマリ離れをしないといけないと考え、絶交を申し出る。

 それまでふわふわと続いてきたキマリとめぐみの日常系な空間は、キマリの大きな一歩によって崩壊を迎えることになる。これはキマリが悪いということではなく、成長・変化しない少年少女はいないということが表されている。キマリが大きく変化を見せることで、今までのキマリとめぐみの関係も変化を余儀なくされる。この共依存の関係から先に脱出したのがキマリであり、5話ではめぐみがセカイ系の擁護者として描かれるのに対し、キマリは変化に憧れた脱引きこもり的な思考を持った存在として描かれるのだ。めぐみと正反対の位置に立つことになったキマリだったが、絶交を拒否することでめぐみが同じ位置に至ることを待つという意思を示した。この伏線は13話のラストシーンで回収される。めぐみもまたキマリと離れて旅に出て、南極の正反対に位置する北極へ向かった旨を伝えるのだ。人はお互いに依存しがちだが、離別はいつか訪れる。めぐみとキマリは、お互いに正反対の場所に旅をして成長し、再会を果たすことだろう。

 

3.日向と友だち

 日向は高校を辞めてバイトに励む16歳だ。日向については2話のキマリたちとの合流、6話でのパスポート紛失事件、11話での元同級生との再会という流れで掘り下げられる。当項目では日向にとっての「友だち」がどのように変化していったのかを軸に各話を検討したい。

 2話で「合格しまくって高校で怠けて落ちた奴らにざまぁみろ、って言うのが今んとこの夢」と語り仲間になった日向だが、このときの日向は人間関係をリセットし、友だちがいない状況だったと考えられる。その後に報瀬を見送り、キマリと別れる間際に日向がかける言葉が印象的だった。

「でもよかったよ。私あなた達2人のこと嫌いじゃなかったんだよね。ほらあのコンビニ多西近いから生徒いっぱい来るじゃん?」「でも2人だけはなんか別だなって。空気が違うっていうか」「うーん…何だろ? 嘘ついて無い感じ?」

など、キマリと報瀬を空気に流されている普通の高校生とは違うと評価している。このように、2話では日向の人間関係に対する敏感さ、現代日本において高校に通っていないことの不自然さが強調される。

 6話では日向がパスポートを紛失し、ちょっとした騒ぎになってしまう。日向の提案は残りの3人で先にフリーマントルへ行くというものだった。日向は友だちに気を遣われることにトラウマを抱えていたのだ。しかし、自分一人で抱え込んでしまおうという日向の振る舞いに耐えられなかった報瀬は、日向を合わせた4人で絶対南極に行くということを宣言をする。南極に行くために稼いだ100万円を、報瀬は日向のために使った場面の報瀬の大胆さ、友だちとしての日向への想いは視聴者にも日向にも伝わっていたはずだ。報瀬の清々しいほどの友情への想いと、日向の友だちとして仲良くすることへの恐怖が表現されたエピソードだった。

 11話では高校に通っていたときに日向を見捨てた陸上部の同期が、連絡してくる。日向は高校を辞めることで彼女たちを拒絶し、それ以来友だちとして他人と深く関わることに恐怖をおぼえていたと考えられる。そしてついに、日向の口から過去のトラウマが説明されることになる。日向は同期に見捨てられた過去をどう精算すればいいか悩んでいたが、答えを出せずにいた。しかし、日向のトラウマは思わぬ形で報瀬などの南極メンバーによって決着される。報瀬は日向の同期たちに日向を見捨てた過去の後ろめたさを抱えたまま生きていけという言葉をぶつけることで、彼女が日向を大切な友だちとして考えていることを日向自身に伝えることになるのだ。日向は報瀬たちの友情を受けることで過去の呪縛から解放され、報瀬たちを頼ってもいい存在なのだと心の底から安堵することになる。

 日向にとって友だちとは、ときに裏切るものであり、お互いに気を使わせないようにしようと努力するような存在だった。しかし、報瀬たちは行動によって新たな友だち像を日向に与えることになる。苦楽を共にし、ピンチのときこそ頼れる存在になる。そういう友だちとして報瀬たちは日向に記憶されたに違いない。

 

 4.結月と友だち

 結月は幼少期からタレント活動をしている売れっ子アイドルだ。しかしその忙しさ、特異さから、日向とはまた違った方向の問題を抱えていた。結月については3話でキマリたちに友だちがどんなものかを教えてもらい、10話までの過程で彼女たちと友だちと呼べる存在になっていく。当項目では結月にとっての「友だち」がどのように変化していったのかを軸に各話を検討していく。

 結月は仕事の関係で友だちと遊ぶ時間が取れず、いつも友だちをつくっては自然消滅してしまう悪循環に入ってしまっていた。彼女にとって友だちをつくることは至難の技であり、仕事よりも遥かに大切なことだった。3話で友だちが今までできたことがないと話す結月に、キマリたちは複雑な思いを抱く。キマリには当たり前のようにいる友だちを、結月は一度もつくれたことがないというのだ。楽しそうに南極に行く話をしているキマリたちを羨ましく思った結月であったが、彼女にとって驚きだったのは彼女たち3人が会ってから1ヶ月ほどしか経っていないということだ。彼女は自分でもまだ仲良くなれる余地があるのではないかと思い、この3人と友だちになるべく南極行きを決意する。

 10話では結月にドラマのオファーが舞い込む。忙しくなると4人で会うのが難しくなると出演を迷っていた結月だったが、キマリは結月に「いいじゃん、もうみんな親友なんだし」という言葉をかける。自分が彼女たちの親友であることを信じられない結月は、「え?親友…?親友なんですか?」と返すことになる。親友になったことをなかなか信じない結月であったが、誕生日をキマリたちに祝ってもらい、キマリとめぐみの話を聞くことで友だちの感覚を少しずつ理解していく。10話の最後はキマリの「友達って多分ひらがな1文字だ!」という言葉で締めくくられる。結月が返した「ね」という一文字は、親友が気持ちを通わせるには十分すぎるものだったのだ。

 結月の中で友だちという概念がどのように変わったのかはわからないが、少なくとも友だちは憧れのものではなく、かけがえのないものとなった。この4人での旅を終えて、結月が親友証明書を書かせることはもうなくなるだろう。今まで友だちがいなかった結月にとって、キマリたちは最初の友だちであり、心を通わせる仲間となった。

 

5.報瀬と貴子と吟

 この作品で最もストーリーの中心として詳細に語られるのが、報瀬と貴子、吟の関係だ。報瀬の母親である貴子が南極で亡くなったことが序盤に語られ、母親の死は報瀬の南極行きの原動力として強調される。南極に行く途中でも、貴子を助けられなかった当時からの隊長・吟との関係を中心に報瀬は貴子の死と向き合っていくことになる。当項目では報瀬が貴子の死をどう受け入れていったのかを、彼女と吟の関係を踏まえながら検討する。

 1,2話では報瀬の南極に行く原動力として、貴子の死が多くのシーンで提示される。貴子の死は16歳女子が南極に行くという目標を立てていることに説得力を与えるも、作中で報瀬は南極になんか行けるはずがないとバカにされている。事実、報瀬は貴子の死という原動力だけでは南極にたどり着けていなかったに違いない。キマリや日向、結月が一緒だったからこそ行けたのだろう。貴子の死はあらゆる意味で報瀬を孤独にしたが、報瀬のことを心から信じてくれる3人を集めることにもなった。

 4話で再会する報瀬と吟だったが、報瀬と吟はお互いに複雑な想いを抱えていた。なぜ吟の親友であった母が助からずに彼女は帰ってきたのか、母だけがいないのはなぜなのか。そして、そうやって吟のことを責めても貴子の死は覆らないし、恐らく吟のせいで貴子が死んだのでもなければ、吟だって貴子を助けたかっただろうということを。報瀬は南極への旅の中で吟と度々話すことになり、お互いに行き違っていた心を通わせていく。7話で、貴子が亡くなった経緯と南極へ向けた想いを吟から聞いた報瀬は、貴子の南極への想いを汲み取った。なんとしてもこの船にいるメンバーで南極に行こうという報瀬の想いを、最後の自己紹介は表しているのだ。

 9話で報瀬と向き合うことを決めた吟は、自分のことをどう思っているのか報瀬に問う。報瀬は

「どう思ってるかなんて全然分からない…。ただ…ただお母さんは戻ってこない。私の毎日は変わらないのに」「帰ってくるのを待っていた毎日とずっと一緒で何も変わらない。毎日毎日思うんです、まるで帰ってくるのを待っているみたいだって」「帰るには行くしかないんです。お母さんがいる宇宙よりも遠い場所に」

と答える。報瀬は母親の死を受け入れて自分の時間を前に進めるために、南極へと進むのだ。

 12話で報瀬は、母親の死と向き合うための旅に終点を見出す。それは彼女が失踪した内陸基地への遠征だった。報瀬は

「でもそこに着いたらもう先はない。終わりなの。もし行って何も変わらなかったら私はきっと一生今の気持ちのままなんだって…」

という言葉を胸に、内陸基地へ行くことを躊躇う。もし内陸基地に着いても変わりばえのない風景しかなくて、貴子の死を受け入れるイベントが起こらなかったとしたら、報瀬は貴子の死を一生受け入れられずに家で彼女を待ち続けることになってしまう。それは報瀬にとっては絶望でしかなく、人生に未来を見出せないだろう。しかし、吟の

「結局、人なんて思い込みでしか行動できない。けど思い込みだけが現実の理不尽を突破し、不可能を可能にし、自分を前に進める。私はそう思っている」「けどずっとそうしてきたんじゃないの?あなたは」

という言葉が報瀬を一歩前に進めてくれた。報瀬はその思い込みで南極までやってきたことを思い出し、ついに自分の意思で最後の旅に出る。

 しかし、内陸基地に着いて発した報瀬の言葉は「思い出してるんだろうね。お母さんと見たときのこと」だった。報瀬の心は凍ったままだったのだ。ここで動いたのが友だちだった。キマリたちは基地の中で貴子のノートPCを見つけ、報瀬に渡す。吟の言葉とキマリたちの行動が、報瀬にもたらした母親の形跡は、時限爆弾として作動することになる。ノートPCのパスワードは報瀬の誕生日で、最愛の娘を生前も思い続けていた演出が憎らしい。そして、起動したノートPCから溢れんばかりのメールが到着する。それは貴子の失踪後、報瀬が毎日彼女に送っていたメールだった。母親が亡くなってからその影を追い続けていた3年間の記憶が報瀬にそのまま返ってくることで、彼女の時間は動き出す。未開封のメールは報瀬に母親の死を報せるには十分なものだったのだ。

 

友情と離別へ-4人の新たなる旅路

 4人はそれぞれの問題を南極に行くことで解決した。振り返ってみると、キマリはめぐみから離れて新しい友だちと知らない場所への旅をした。報瀬は母の死を受け入れ、友だちをつくった。日向は過去の友人関係を自分の中で整理し、友達として3人を受け入れた。結月は初めての親友をつくった。

 本稿で言うところの「5.報瀬と貴子と吟」のウェイトが非常に重く、一見すると母の死を報瀬がどう受け入れるのかを最も重要視しているように思える。しかし、このようにして物語をもう一度全体から考えてみると、この物語のコアになっているものは友情と離別ということになる。非常に当たり前のことだが、この作品では出会いと別れが、一定のリアルさをもってドラマチックに描かれている。ここでいうドラマチックというのは非現実的という意味ではなく、誰にでも起こりうる可能性のある事柄をより劇的に描いているという意味だ。芝居としての誇張と現実を想起させるリアルさが上手く同居している。

 依存しあうこと、孤独であり続けること、空気を読むこと、人付き合いをすること。人間関係ではよくあることだが、どれも良好な人間関係にはあたらない。お互いに相手を思いやりながらも独立した緩やかな関係、それが友だちなのではないだろうか。お互いに依存した関係ではないから、13話のラストで描かれたようにそれぞれの道を独立して歩んでいける。それでも共通の集まる場所がある。

 しかし、この物語で提示される「友だち」は数多ある友だち像の一つでしかないことには留意したい。報瀬は13話の最後にこう言った。

「ここは全てが剥き出しの場所です。時間も生き物も心も。守ってくれるもの、隠れる場所が無い地です」「私たちはその中で恥ずかしい事も隠したいことも全部曝け出して泣きながら裸で真っ直ぐに自分自身に向き合いました。一緒に1つ1つ乗り越えてきました」「そして分かった気がしました。母がここを愛したのはこの景色とこの空とこの風と同じくらいに仲間と一緒に乗り越えられるその時間を愛したのだと」「何にも邪魔されず、仲間だけで乗り越えていくしかないこの空間が大好きだったんだと」 

多くの友だちの在り方があるが、その中でも心を晒け出しお互いを深く知り助け合う関係。南極はそんな友だち関係を描く舞台としては最適な場所として選ばれた。友だち、仲間、家族との時間は有限であり、出会いがあれば別れもある。それでも共にする時間は最高のものであり、一生の宝物となる。報瀬にとっての母との別れは友だちを集めた。そして、その友だちとの別れも迫っているが、また長い人生の中で新しい出会いがあるだろう。母は亡くなってしまったが、またこの4人で南極に訪れれば、思い出は鮮やかに蘇る。人との別れを悲しむのではなく、時折見返すアルバムのような思い出として、新しい旅の始まりとして祝福することを教えてくれた。

 それを締めくくるように、南極を離れるときに報瀬は髪をバッサリと切り落とし、PCと100万円を南極に置いていくことで貴子の死との決別・南極へ再び戻ってくるという予感を仄めかす。出会いと別れ、再会を見事にまとめ上げた素晴らしい演出であった。

 私たちの社会には出会いと別れはセットで存在する。共にいる時間に本心をぶつけ合い、裸の自分をさらけ出す。そんな友だちの在り方を提案したのが本作だったのではないだろうか。友だち・家族との別れを惜しまずに、また会える日を楽しみにするというポジティブな選択がここから生まれるのだ。

 

 

最後に 

 このレビューはこの作品を多くの人に見て欲しいという思いで書いたが、書いた理由はもう一つある。僕はこの作品をリアルタイムで追っている間は、とても密度が高い青春ものとして毎日楽しんでいた。回を追うごとに4人は物語の中で自分と向き合い、成長していく姿が周りのリアリティある環境の中で違和感なく描かれていく。しかし、彼女たちが旅の終わりを惜しむのと一緒で、僕もこの作品が終わってしまうのがとても寂しかった。しかし、彼女たちが爽やかな別れを告げたように、僕もこの作品ともいったんの別れを告げなければいけない。本作を宝物として胸の中に仕舞い込み、僕はまた新しい作品に出会う旅に出る。人との出会いと別れと同じように作品との出会いと別れもまた、祝福すべきことなのだ。

 

 

『さよならの朝に約束の花をかざろう』はなぜファンタジーとして描かれたのか。

 『さよならの朝に約束の花をかざろう』(以下、『さよ朝』)は岡田麿里が初の監督として制作したアニメ作品だ。近年の『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』や映画『心が叫びたがっているんだ。』のような代表作にも見られるように、岡田は人と人との関わり、特に友人関係やいじめについてフォーカスした作品を描いてきた。様々な作品ジャンルの脚本・シリーズ構成を受け持ってきた岡田だが、特に少年少女の細かな心情描写や会話において高い評価を得ている。

 しかし、初監督となった本作では岡田は今まで好んで選んできた現代日本という土俵を選ばなかった。舞台は中世ヨーロッパを思わせるファンタジー世界。なぜ『さよ朝』はファンタジーとして描かれたのだろうか。

 一つ想像できるのは、岡田は現実世界をモチーフにして人間関係を描くことをやりきったと考えているのではないか、ということだ。日本のアニメの状況を考えてみても、現実を直接的に描く作品の難しさを異世界ものの台頭が物語っている。

 95年の『新世紀エヴァンゲリオン』を発端にして、「セカイ系」と呼ばれる作品群が出現した。「セカイ系」は明らかに時代性を反映した潮流であり、君とぼくという近景の出来事が直接的にセカイという遠景を変革していく点が象徴的だ。現実には自己承認をしてもらえないというオタクたちの解決策として出現したセカイ系作品は、セカイという遠景を担保とすることで物語内では一定の説得力を得ていたのだ。自分が肯定されるのが作品世界内であったとしても、オタクたちが外界に一歩踏み出すことへの大きな貢献となった。

 しかし、セカイ系作品の自己承認システムはオタクたちがそのシステムの構造に自覚的になっていくことで、崩壊していく。自分たちは作品世界内で自己承認欲求を満たしているオナニー野郎だと自虐的になっていくのだ。その過程でセカイ系作品は衰退していく。

  その後は「空気系」・「日常系」と呼ばれるような日常を綿密に描いていく作風が増えていった。これらの作品群は異性の登場を省いて日常以外の不要な物語を徹底的に排除し、「セカイ系」から遠景さえも取り除いたものだと「物語とアニメーションの未来」[1]では語られている。ここで言う遠景とは、もちろん社会の抱える問題のことを指すのだろう。

 「空気系」・「日常系」作品はニュースを騒がせるような社会問題に触れることはできないかも知れない。人と人とのコミュニケーションという近景にしか焦点が合っていない作品群だと思えるから。しかし、今の若者にとってコミュニケーション不全は現実の問題として横たわっている。そして、コミュニケーションの不足/過剰という問題意識は日本の現代社会にも共有されることになる。いじめ、差別、引きこもり、孤独死SNSによるストレス。どの世代においてもコミュニケーションの不足/過剰が引き起こす問題が顕在化しており、社会を描く際に用いる題材としては最も重要な問題の一つになったのだ。

  そのコミュニケーションの問題について直接的に切り込んでいったクリエイターの一人として、岡田麿里をあげることができるだろう。前述したように、岡田は少年少女の細かな心情描写や会話を描くことに長けている。彼女の描く作品の舞台は現代日本のどこか、もしくはそれに準ずる場所が多い。若年層の視聴者に馴染み深い舞台設定は少年少女の心の動きを描くのに相応しい舞台だったのだ。

 家族や友人といった恋人のような特別な関係ではないけれど、世間一般では簡単に築けると思われている関係、岡田はそれを「神話」としてアニメで描きたいはずだ。家族や友人といった関係は世間一般で言えば当然あるべき関係であるが、その関係を享受できていな人たちも存在する。家族や友人という関係は私たちが思っているよりも儚くて脆いのだ。岡田はその脆さと美しさを自身の経験を交えながらアニメに織り込んでいく。

 岡田脚本のうち、家族や友人といったテーマを仕事場を通して描いた作品が『花咲くいろは』(以下、『いろは』)だ。この作品からは家族、出会い、別れといったテーマを読み取ることができる。もちろんより多くの要素を紹介できるかも知れないのだが、重要なのは『さよ朝』の主題としてもこれらの要素を捉えられることだ。

 この作品は母の元を離れて温泉旅館で働く少女を描く物語であり、母から離れた子が大人に成長していく過程を描いている。母と子がお互いに抱える複雑な思いとすれ違いが主に子の視点から物語の中で展開される。しかし、仕事場や学校を舞台にしていたため、物語の主軸にあるのは様々な人々と主人公いろはの重層的な関係だ。それに対し、『さよ朝』では主に母の視点から母と子の関係が物語の中で展開される。これらのアニメ作品に載せたテーマを、視聴者に自分のこととして受け止めてもらうためには工夫が必要だ。『さよ朝』では工夫の一環としてファンタジーという舞台は設定されたのではないだろうか。

 アニメーションにおいてリアリティを追求することは矛盾を孕んでいる。なぜならアニメーションという二次元と時間の軸でしか表現できない手法を用いる時点で、虚構性は織り込み済みのものとなり、作品内容の現実味を担保できないからだ。であれば最初から虚構性を押し出し、虚構の中にテーマとなるエッセンスをそっと入れる方が視聴者にテーマを伝えるという点では有効な手法に思える。そこで中世ヨーロッパ風のファンタジー世界は有効になる。このロジックについてより詳細に検討する。

 まずファンタジー以外の舞台設定について考えてみる。学校や部活を舞台にした場合は少年少女の交流、SF世界を舞台にした場合は科学技術が必須要件として描かれる。ではファンタジーはどうだろうか。ファンタジーでは科学技術をベースとしない不可思議な現象、つまり魔法や魔獣のような現実では存在しないものが描かれることだ。ただ、ファンタジーは必ずしも魔法を必要とはしていない。SFの科学技術とは違い、ファンタジーにおいての魔法は必須要件ではないのだ。

 『さよ朝』は魔法という存在感のある設定を省き、極限まで設定を削ぎ落としたファンタジー世界として描かれる。これは学校やSF世界を舞台にする場合よりも母子物語を描くには極めて条件がいい。なぜだろうか。

 学校ものやSFといったジャンルで存在感を放つテーマは上記のように確定的だが、『さよ朝』のファンタジー世界は大テーマとなりうる設定を切り離すことに成功している。『さよ朝』は私たちが想像する中世ヨーロッパにとても近い舞台、つまり特筆することのない童話的世界として認知されるのだ。それに対して、学校から少年少女は排除できないし、SFに科学技術は欠かせない。

 例えば、『さよ朝』の設定から母子物語を無くしたとする。残るテーマで私がピックアップできたのは人種・民族をはじめとした差別、いじめだ。これはイオルフ、レナトのような人間以外の特別な種族が用意されていることでわかる。二つ目、マキアがエリアルを拾い上げるシーンからは育児放棄や貧困問題が浮かび上がる。また三つ目として、イオルフが長命な種族であるという設定を活かし、長大な時間の中での人々の出会いと別れを描写していることも明らかだろう。他にも戦争や国家の盛衰など、小テーマは散見する。しかし、本作では母子というテーマが一本の柱として物語を貫いていることが容易に分かる。これがファンタジー世界を舞台にしたメリットである。つまり、ファンタジー(ここでは今の異世界ものとほぼ同義)は設定を自由にカスタマイズし、主題を最も明確に描けるプラットフォームとして用いられているのだ。

 学校における少年少女やSFにおける科学技術と違い、ファンタジーにおける差別やいじめ、出会いと別れといったテーマはファンタジーという言葉から容易に連想される言葉ではない。ファンタジーにおいてのそれは魔法だ。しかし、魔法は既に排除されている。物語序盤から母子の関係を視聴者に徹底的に意識させることで、先述した小テーマたちは背景化されるのだ。小テーマが背景化されることで物語の軸は母子というテーマに定まり、ブレることはない。

 しかし、ここで一つ疑問が立ち上がる。母子物語を強調するならなぜ小テーマを排除しなかったのだろうか。小テーマも無くしてしまえば、より物語は母子の関係にクローズアップされたのではないかと考える方もいるだろう。

 ここには岡田の作家性が表れている。岡田は『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』[2]で言及しているように、DVやいじめの影響で学生生活の多くの時間を引きこもりとして過ごした。ここでも挙げられている『あの花』、『ここさけ』はこの体験をベースに描かれており、岡田の作品にいじめ、差別、DVといった要素は必須項目だ。母子物語を描く上でも、そこを切り離して考えることはできなかったのではないだろうか。

 岡田の思い描く母子物語には差別とすれ違いが溢れていて、中世ヨーロッパを舞台にした童話とは似ても似つかない複雑な人間関係が描かれている。『さよ朝』という作品は、真っさらなフォーマットに描かれた現代の母子像のあり方を示していると言える。母子の物語をしがらみなく描き、より純度の高い人間ドラマへ挑戦すること。これが、岡田がファンタジー的世界観を本作の土台として選択した理由ではないかと筆者は考えている。岡田麿里というフィルターを通して描かれる母子の物語は、鋭敏に現代日本の家族を批評しているのだ。

 

[1] 『思想地図 vol.4』(2009)に掲載された座談会。東浩紀宇野常寛黒瀬陽平、氷川竜介、山本寛が参加している。

[2] 2017年に出版された脚本家・岡田麿里の自伝。制作の源泉となっている学生時代の苦悩を綴る。

芸大卒展

 3年ぶりくらいに芸大卒展に行った。あいにくの雨だったけど、会場は美術系展覧会にも関わらず若い人がとても多くて驚いた。やはり卒展は関係者含めて、若い人多めなのかも。

 久しぶりの展覧会であることに加え、尋常なく寒く、早期撤退を心に誓いながら芸大に潜入。芸大美術館とキャンパスの建物何個か、都美の展示スペースを回った。作品自体はかなり多くて、一点一点丁寧に見ることはできなかったのだが、油画も日本画も暗い絵が多い。噂によると絵の具代が高いからとか。確かに、油画も日本画も発色のいい絵の具は高そうだ。学生さんにはなかなか厳しそう。
 それに対し、先端やデザインのような学科は様々な材料を扱えるため、目立つキャッチーな作品が多いように思えた。先端は映像やインスタレーションのようなものが多く、他にも絵画や立体作品など多種多様な素材を用いた作品が出品されている。
 
 一通り見た感想として、難解な作品ばかりでなく、私でも少しコンテクストが汲み取れるような作品があって楽しめる展覧会だなと感じた。
 難しい美術理論や社会に訴えるような芸術ばかりでなく、一般の閲覧者にもわかるようなユーモアのある作品も重要なことを確認できた。芸術作品である以上、一定以上のハイコンテクストな内容が必要なのは確かなのだが、必要以上にハイコンテクストすぎると門戸が狭くなってしまう。多くの人に共有されているコンテクストを用いた、少しわかりやすい作品も作品として認知される必要があるのではないだろうか。

『ネト充のススメ』

 前期で見ていた『ネト充のススメ』を見終わったのでまとめとコメントを。

 森子や優太の現実世界のしがらみと切り離された空間としてのネトゲを愛する姿勢が色濃く出ていた。リアルを知らないからこそ気軽に接することができる匿名性のいいところが出ていた反面、その匿名であるはずの二人が実名を知ってしまうことのロマン、悪く言えばご都合主義の側面が強い作品となっている。

 ネット上ではリアルの姿を知らないからこそ遠慮なく接することができる場面が多い。この二人はお互いに実名を知ってしまったことで、ネトゲでは今までのような付き合い方は難しくなるのではないかと思う。二人はお互いをリアルでしっかりと認識することでリアルでの交流が増していくのではないか。そうすると、ネトゲは出会いの場としての役割を果たしたにすぎない。個人的には、ネットの匿名性を活かした緩やかなつながりをもう少し上手く伝えているとより魅力的な作品になるのではないかと思う。
 そこで出てくるのが『君の名は。』だろう。この作品はお互いが入れ替わることで匿名性を保ちながらも対話を重ねていくことで、人と人とのネット上のような緩やかな交流を描けているのだ。

代わり映えしない日常を打破する力

 『宇宙よりも遠い場所』、忘れないうちに4話のこと先に書こうと思う。

 4話のテーマは行き先を決める、だ。1話では目的も定まらず、ただなにかやりたいという漠然とした思いしかなかった。このままではほとんどの日々を凡庸に過ごす高校生と何も変わらない。どこかに行きたい、何かをしたい。みんなそう思ってるが、流れに身を任せて高校生活を終えちしまう学生がほとんどだろう。その中でも主人公のキマリは何かをしたいと思う段階から、南極へ行くという明確な目標を掲げることができたのだ。しかもそのために行動し、着実に南極への道を踏みしめている。
 このような題材は脚本を担当している花田十輝の十八番だ。例えば直近でブレイクした作品だと『ラブライブ!』シリーズがある。この作品の主人公も本作の決まりのようにスクールアイドルという目標を見つけ、友人たちと目標に向かう過程が描かれている。『ラブライブ!』との比較で見てみると今後の展開をより楽しめるかも知れない。